(①のつづき)
その後、相手方には接近禁止命令が出たと病院のベッドの上で聞かされ安堵したのを覚えています…
堕胎が終わり精神的にほんの僅かに落ち着いた頃…
盛岡の母子寮には入れれないので…とのことで僅かな荷物を持ち息子と千厩の母子寮へ移送されました
母子寮では寮母さんにお金を盗まれたり買い物袋の中身を点検され嫌味を言われ嫌がらせをされ散々でしたが…息子と話をして1年ちょいでその母子寮とオサラバして
養母の家のある盛岡へ…
そこで、たまたま養父が亡くなったことを共通の知人から聞かされました…
養父が亡くなったから遺産目当てで戻って来たと思われても仕方なかったのかな…って今なら思えるけど
当時は実家に『こっちに戻って来たからアパートの保証人になってほしい…』と言う内容の電話をしただけなのに開口一番、養母から言われたのは『お父さんが死んだの、どこで嗅ぎ付けたのか知らないけどお前にやる遺産なんてお金なんて1円もない!!』でした…
事の経緯を話し会いに行きましたが最初から最後まで嫌味を言われながら養父の仏壇に線香をあげて何とか後日アパートの保証人になってもらい生活し始めました…
その後は養母の母親の介護をすることになり、認知症&食道癌で食道がなく胃ロウができないために腸ロウにしなければならず、そのための手術をするのですが1日休ませてほしいと当時の職場だった介護施設(訪問介護担当でした)にお願いしたところ介護の職場なのにも関わらず辞めさせられたり…色々ありました。
(手術前の【まだらボケ】の時は、養母が仕事で不在の時に嫌いなおかずだったらしくアツアツの味噌汁や酢の物を頭からかけられたりお風呂に入れるように言われてお風呂場に連れて行ったらプラスチックのタライで後頭部を何度も殴られたり、湯船の温度を見ようとしたら押されて服を着たまま湯船に落とされたり…(携帯水没で何度買い替えたか…)
朝の4時過ぎに携帯が鳴って何事かと思えば脱走したから探すのを手伝えと言われて探し回ったり…)
その頃から少しづつ…
形を変え【介護欝】になっていったんだと思います…
今思えばですけどね…
現実逃避したいがために本気で死ねると思って手首を何度も何度も切り付けたり
首の近くを切ったり…
市販の風邪薬を1瓶半ポリポリとまるでラムネ菓子か何かのように口へ放り込んでは飲み込んでフラフラになって養母の家まで養母の母親の介護をするために行ったり…
3.11の頃にはボロボロ状態でした
彼氏らしき人はいたけど全て金銭面や心の隙間を埋めるため…
正直、当時は行為があっても仕事の一つだと自分に言い聞かせていました
本当の彼氏と呼べる人に出会った頃には…
その人と実際に会って手を繋げるようになるまでに1年か2年…
仕事と思わずに行為ができるようになるまでに…いったい何年かかったんだろう…
同居して8年は過ぎたかな…
気が付いたらウチは50代になっていました…
(③へつづく)