『K』ちゃんって言うんだけど境遇が似てて
普段、最推しの枠の子と話すことなんてほとんどないウチが
どんな境遇で育ったかとか子供の頃どうだったとか
そんなことまで話してたwwww
それは『K』ちゃんも同じみたい
2人でびっくりしてそれでも話すのが楽しくて…
あっという間の時間でした。
『K』ちゃんって言うんだけど境遇が似てて
普段、最推しの枠の子と話すことなんてほとんどないウチが
どんな境遇で育ったかとか子供の頃どうだったとか
そんなことまで話してたwwww
それは『K』ちゃんも同じみたい
2人でびっくりしてそれでも話すのが楽しくて…
あっという間の時間でした。
色々と手続していく上で…
色々な事がわかって来た。
最初に入院した時のこと…
病院の名前さえ記憶になかったから
なんとなくの行き当たりばったりで『婦人相談所』へ行き
そこで、「以前こちらにお世話になったことのあるものなんですが…」と事情を話し
自分が今の状態に至った原因とその後のことを大体ではあるが教えてもらうことができた…。
それはほんの一部だったけれど…
経緯は大体あっていた。
H9頃と記憶していたがH12だった事がわかり…
そして、それによって一筋の光が見えた…
ところが無情なもので一番最初に入院した時の病院名と退院日は正確に分かったものの
入院日が不明…
その後医大や中央病院に入院したことなどは分かったが一番肝心な入院日が不明…
最初の病院に入院した日が不明=障がい者年金の手続きが先に進まない
…と言う事なのである
金銭に関わることの為その辺はシビアなのだろう…
当時のお薬手帳でも診察券でもあれば…と言われたのだが
生憎、自分の知らぬ間の移送などで何処に何が在ったかさえ覚えておらず
立証するものもない…
病院に尋ねてみたがH12ともなると当時のカルテなどは残っていないとのことで今回は、そこまでとなった…
婦人相談所に当時の先生(第3者)が2人いればそれでもいいらしいが聞いたところ当時の先生はもうそこにはいないとのことだった…
残るは…当時、受給していたであろう生活保護からの地元から母子寮への移送などの費用を担当したであろう生活保護の担当者が残しているであろう資料…
これがなければどうなることやら…
せめて資料だけでも残っていれば…と願わずにはいられないのである…
最近、抑鬱と診断され、2週間に1度の通院と同じペースで盛岡暮らしの相談支援室と言うところで相談をしたりしてる訳なんですが…
病院の担当の先生にも、相談室の担当の人にも
昔、生活保護を受給していたことがあってその時に担当者からは嫌がらせのように『早く仕事見つけてよ』と電話で言われ、面接をしようとして面接予定の会社に電話をしている話の中で「生活保護を受けていて3か月に1度提出書類を書いていただかないとならないんです」と話すと電話を切られたり、面接の時に『生活保護受けてるなら、うちみたいな会社で働かなくても…』とか『保護の方がうちなんかよりたくさんお金もらえるでしょう?』と薄ら笑いされたり求人誌じゃなく職安を通しても言われて面接すら受けさせてもらえなかったんです…だから、生活保護は受けたくないんです…と一番最初に生活保護の話が出た時から伝えてあるのに…
それなのに…病院の先生は精神障害者手帳と自立支援医療費の話が出る度にウチの顔を見る度に『調子はどうですか?生活保護の手続きも一緒にしながら…』と『今の薬で寝れてますか?ご飯は?食べれてますか?焦らずに生活保護受けながら、ゆっくり治して仕事探すなりなんなり…』としか言わない…
『は?』
ウチが最初の時に言ったのちゃんと聞いてました??
生活保護は受けたくない…そう言いましたよね??
その当時のこともトラウマなんです…って伝えましたよね??
ちゃんと聞いてました??
心療内科ってどこもそんな感じなんですか???
正直、不信感しかないです。
初診の予約も何か月も待たなきゃならなくて
2月に電話して予約取れたのが5月の中頃だったんですよね…(なのに診察は5分か10分程度なのはびっくりしたけどさ)
雰囲気もよくて今まで通ったことのある精神科と違っていいと思ったから通うことにしたのに…
薬も必要以上に出されないし…
だから通ってるのに…
精神科の方がまだよかったのかな??
精神科だと一番最初のことから根掘り葉掘り聞かれて気持ち的にボロボロになってそれからどうするか方針決まって…投薬か入院か通院かとか色々…
それもキツイな…覚えてないこととかの方が多いし、一番最初なんか知らないうちに入院させられてたこともあって怖いイメージしかないし…
正直、本当に生きてるか死んでるか分からない…ただただ生かされてる感じの思いでしかないからなぁ…
と…そんな感じで不信感と不安と闘いながら日々過ごして居ます。
色々あり過ぎて定かじゃないところや忘れているところ
いつだったか忘れちゃったところもあるけど
祖母が震災の後に亡くなり
息子も成人して何年か経過したころ鬱病何度目かの再発
一度、地元の東京の児童保護施設みたいなところに居た彼氏が一人暮らしを始めたのをきっかけに気分転換に…と東京に行ったものの2年もしないうちにコロナが蔓延し
職場のビジネスホテルが廃業…当然ルーム清掃で稼いでいたウチも解雇
彼氏は飲食業だったので何とか細々と生活していたものの彼の給与とウチが受けたコロナの2つの貸付では生活もできなくなり、彼を連れて盛岡へ…
息子を世帯主にしていたものの残していたアパートで息子と彼氏と3人で生活をはじめて彼氏にも仕事をしてもらい生活費を入れてもらいウチも東京に行く少し前まで仕事をしていたところでまた仕事をさせてもらって何とか生活をしていましたが、そこでの人間関係や彼氏の態度や、それに対する息子の愚痴…そして実家兼ア駆りパートの建て替えでの建設会社との養母との意見の食い違いによる話し合いに駆り出された時のストレス等々タイミング悪く全てが重なり…
ある日突然、通勤中のバスで具合が悪くなり…職場近くの歩道の真ん中で吐き気を堪えながら過呼吸になりパニック障害の発作が出てしまい動けなくなってしまいました…
そんな状況の中、なんとか通院し始めた病院へ電話をかけ状況説明…
『とにかく職場に連絡して直ぐに来なさい』と言われました…
同じように店長に状況説明のために泣きながら過呼吸になりながら電話をして説明
『そんなこと言われても私、今日、会議だから…今日Tさん一人になっちゃうでしょ!どうにかならないの!?』とグチグチ言われ怒鳴られ出勤するように言われましたが無理だと伝えて半ば強引に電話を切り病院へ…
翌々日、出勤するとすぐに店長に呼ばれ『いつ??』『いつ直るの?』と聞かれました。
頭の中真っ白…
当然わかりません…
黙っていると『いつまで?』と聞かれました。
ん??いつまで??
この言葉は、【いつ辞めるの?】に聞こえました。
実際、後から『いつまで来れるの?』とも言われましたので…
本当は締め日が良かったのですが、今月(6月)いっぱいで…と決めさせられる形になり今に至ります…
そして躁鬱ではなく抑鬱と病院から診断され2週間に1度の通院と毎日の薬
同時進行で、心的障害者手帳と自立支援医療費の申請のために同じペースで
盛岡暮らしの相談支援室と言うところでこれからのことを相談している最中です…。
(①のつづき)
その後、相手方には接近禁止命令が出たと病院のベッドの上で聞かされ安堵したのを覚えています…
堕胎が終わり精神的にほんの僅かに落ち着いた頃…
盛岡の母子寮には入れれないので…とのことで僅かな荷物を持ち息子と千厩の母子寮へ移送されました
母子寮では寮母さんにお金を盗まれたり買い物袋の中身を点検され嫌味を言われ嫌がらせをされ散々でしたが…息子と話をして1年ちょいでその母子寮とオサラバして
養母の家のある盛岡へ…
そこで、たまたま養父が亡くなったことを共通の知人から聞かされました…
養父が亡くなったから遺産目当てで戻って来たと思われても仕方なかったのかな…って今なら思えるけど
当時は実家に『こっちに戻って来たからアパートの保証人になってほしい…』と言う内容の電話をしただけなのに開口一番、養母から言われたのは『お父さんが死んだの、どこで嗅ぎ付けたのか知らないけどお前にやる遺産なんてお金なんて1円もない!!』でした…
事の経緯を話し会いに行きましたが最初から最後まで嫌味を言われながら養父の仏壇に線香をあげて何とか後日アパートの保証人になってもらい生活し始めました…
その後は養母の母親の介護をすることになり、認知症&食道癌で食道がなく胃ロウができないために腸ロウにしなければならず、そのための手術をするのですが1日休ませてほしいと当時の職場だった介護施設(訪問介護担当でした)にお願いしたところ介護の職場なのにも関わらず辞めさせられたり…色々ありました。
(手術前の【まだらボケ】の時は、養母が仕事で不在の時に嫌いなおかずだったらしくアツアツの味噌汁や酢の物を頭からかけられたりお風呂に入れるように言われてお風呂場に連れて行ったらプラスチックのタライで後頭部を何度も殴られたり、湯船の温度を見ようとしたら押されて服を着たまま湯船に落とされたり…(携帯水没で何度買い替えたか…)
朝の4時過ぎに携帯が鳴って何事かと思えば脱走したから探すのを手伝えと言われて探し回ったり…)
その頃から少しづつ…
形を変え【介護欝】になっていったんだと思います…
今思えばですけどね…
現実逃避したいがために本気で死ねると思って手首を何度も何度も切り付けたり
首の近くを切ったり…
市販の風邪薬を1瓶半ポリポリとまるでラムネ菓子か何かのように口へ放り込んでは飲み込んでフラフラになって養母の家まで養母の母親の介護をするために行ったり…
3.11の頃にはボロボロ状態でした
彼氏らしき人はいたけど全て金銭面や心の隙間を埋めるため…
正直、当時は行為があっても仕事の一つだと自分に言い聞かせていました
本当の彼氏と呼べる人に出会った頃には…
その人と実際に会って手を繋げるようになるまでに1年か2年…
仕事と思わずに行為ができるようになるまでに…いったい何年かかったんだろう…
同居して8年は過ぎたかな…
気が付いたらウチは50代になっていました…
(③へつづく)
実は息子が小学1年生の頃、2回目の離婚をしてすぐの頃…
当時、住んでいたアパートのオーナーに息子不在時を見計らって部屋に来られて包丁を突き付けられてレイプされて妊娠させられ誰にも相談できずに
婦人相談所をやっと見つけた頃には堕胎できる時期を逃し
翌日から本格的に相談する予定でいたもののオーナーの奥さんからの家賃の催促や金額などの食い違い等から当時まだ若かったウチは息子を残して自殺しようとしていました。
それも含めて、相談所の方からオーナーの奥さん宛てに手紙を書くようにと言われ
息子不在の時を見計らったかのように来て包丁を突き付けられ抵抗できない状態で何度も強姦され子供ができ堕胎できる時期を過ぎてしまい仕事にも行けず自分たちの生活も確保できない状況にあり婦人相談所に相談に行っているのでそちら(相談所)から指示があるまで動けないという内容の手紙を書きオーナーの自宅ポストへ…(近所だったし当時は切手代も無いくらい切羽詰まってました)
今思えば…何故、ウチら親子を保護した後で婦人相談所の担当者が手紙を渡してくれなかったのだろう…と思うのですが
当然のことながら数時間もしないうちにオーナーの奥さんがアパートへ
ウチら親子は逃げる(保護してもらう)ための最低限度の荷物を鞄に詰め込んでいる最中でした…
『お前が唆したんだろう』『その腹の子の父親がうちの旦那かどうか証拠を見せろ』などと暴言を吐きながら土足のままでキッチンに合った包丁をウチの顔と腹めがけて投げつけながら、洗って置いてあった食器たちを床にばら撒き粉々にし投げつけたけど届かなかった包丁を手に近寄ってきました
息子は奥の部屋で泣き喚いていましたが何かしら有事の場合は元旦那の部屋か隣の住人のところへ行くように話してあったので息子が逃げたのを横目に確認しつつ奥さんに応戦…
顔と手首と腕と掌を切り付けられながら…
夕方だったので、たまたま帰宅してきたお向かいの人やお隣の住人
そして、迎えに来てくれた友人とが通報してくれたおかげで数分後にはパトカーが来てオーナーと奥さんは警察に連れていかれました
ウチはと言うと流血しながら来てくれた友人と一緒に荷物を詰め息子の迎えに行き(息子は、たまたま休みだった元旦那の部屋に居ました)2日ほど友人宅へ…
ここからはウチ自身全く記憶がないので後から聞いた話になりますが…
友人も仕事があるためいつまでも世話になるわけにもいかず、アパートの部屋の掃除もしなければならず、元旦那が休暇中だった為に事件現場の2つ隣の旦那の部屋で匿ってもらっていました。
元旦那は、ウチが喋ることもできず数時間ごとに飲み物だけを口にし無表情で涙を流しているだけで会話もできないため息子とウチを面会に来た婦人相談所の担当者に託したようです…
隣の部屋だったのに気が付いてやれずに悪かったと隣の部屋のおじさんが来てくれても、アパートの端と端に居たのに気が付かなかったと言う元旦那の声だけはほんの少しだけ記憶にありますが
当時のウチはサイレンの音、大きな物音、階段を上がってくる音…息子と元旦那の声以外を聞くとパニック状態になり耳を塞ぎ部屋の隅っこの方で震えていたと聞きました。
それが今の過呼吸やパニック、対人恐怖症や欝病の大元の原因です
息子は30代になりウチも50代になりましたが未だに対人恐怖症や過呼吸、パニック障害は治ることがありません
息子と息子の友人の男の子と
ウチの彼氏以外の男の人がパーソナルスペースに入り込んでくると場合によっては発作が出ます…
大きな音やサイレンの音に関してはヘッドホンをつけ周りの会話や音が最低限聞こえて会話が成立する程度の音量で音楽をかけて紛らわしていますが死にたいモードにスイッチが変わると涙が止まらなくなります
(つづく)